1: 名無しさん@おーぷん 2018/10/20(土)21:15:37 ID:RBJ
【悲報】元寇の頃に日本に送られた蒙古の使者の末路……

1回目 高麗で引き返した(生還)
2回目 蒙古国牒状書持ってきたけど返事もらえなかった(生還)
3回目(1回目と同じ人) 対馬で拒まれて島民捕えて帰った(生還)
4回目 島民帰した(生還)
5回目 日本からの使者?連れて帰った(生還)
6回目(5回目と同じ人) フビライに>>1の報告した(生還)
(文永の役)
7回目 処刑…(死亡)
8回目 また処刑…(死亡)
(弘安の役)
9回目 台風で引き返した(生還)
10回目 日本に行きたくない船員に使者が殺された…(死亡)
11回目 日本に来ずに手紙だけ届けた(生還)
12回目(4回目と同じ人) 鎌倉へ連行、のち15年後に病没(生存、日本に留めて帰さず)
13回目 お坊さんだったんで幽閉のち赦免、日本のお寺の住職になった(生存、日本に留めて帰さず)

13回中、生還8回(本土に来れたのは4回)、死亡3回。

時期で分けると
文永の役前→生還、
文永の役後→処刑
弘安の役後→生かすが帰さず日本に留める

7回目と8回目だけ処刑されとるンゴ……

引用元: 【悲報】元寇の頃に日本に送られた蒙古の使者の末路……







3: 名無しさん@おーぷん 2018/10/20(土)21:19:47 ID:mw7
わりと生きてて意外だった
日本もそんなに野蛮人じゃなかった

45: 名無しさん@おーぷん 2018/10/21(日)11:12:52 ID:j8L
>>3
何度もくる使者に対して全くリアクションせえへんかったと思っとったけど、
何度も朝廷とも議論したり、半島の高麗で偵察しとったり、
5回目の使者の時に日本からも偵察の使者出しとったり、
割と事前に情報収集も対策考えたりもしとるんやな

朝廷の出そうとした返書の内容がぶっ飛んでて
返書しないのとこれ出すのどっちが不味かったのか謎やけど

4: 名無しさん@おーぷん 2018/10/20(土)21:20:41 ID:zBB
はえーてっきり全部殺されてたと思ったわ

5: 名無しさん@おーぷん 2018/10/20(土)21:21:09 ID:p61
>>4
ワイもこれ
全員殺されたのかと

20: 名無しさん@おーぷん 2018/10/20(土)22:11:31 ID:vnW
>>4
>>5
そう思っとる人よう見かけるけどなんでやろ?
使者切られたのが元寇の原因だと思っとる人もよう見かけるし
実際は元寇の前には斬られてへんから順番が違うんやけどな

日本が使者切った後に元が攻めてきたんやのうて、
元が攻めてきた後に日本が使者切っとるから

6: 名無しさん@おーぷん 2018/10/20(土)21:22:43 ID:mw7
あの処刑前に漢詩を残したイケメンの印象が強すぎて
それに比べて倭猿ヤバン過ぎって感じになるんだな

7: 名無しさん@おーぷん 2018/10/20(土)21:23:11 ID:F5S
いくら当時でも使者を殺すにはまずいって風潮があったんちゃう

14: 名無しさん@おーぷん 2018/10/20(土)21:37:44 ID:lhc
鎌倉武士とかいうぐうの音も出ない蛮族集団

15: 名無しさん@おーぷん 2018/10/20(土)21:38:16 ID:SNm
鎌倉武士云々より元軍の戦闘力低すぎない?

16: 名無しさん@おーぷん 2018/10/20(土)21:38:37 ID:SNm
>>15
戦闘力というか戦意か

30: 名無しさん@おーぷん 2018/10/21(日)04:12:02 ID:icJ
>>15-16
使者も消極的なんか途中で海怖がって帰った人とか
クビライに元寇反対の進言した人とかおったなあ
使者は文官やろうから武官とは違うんかもしれへんけど

64: 名無しさん@おーぷん 2018/10/21(日)21:24:01 ID:oWJ
>>15
1度目の文永の役では、日本が蒙古の将軍の劉復亨を射て負傷させたことが
他の将軍の弱気の一員になったんじゃないかって説もあったな
射たのは九州御家人の少弐景資だとか

65: 名無しさん@おーぷん 2018/10/21(日)21:28:47 ID:Ahf
>>64
後世まで武勲をちゃんと名前付きで称えられていて羨ましい

21: 名無しさん@おーぷん 2018/10/20(土)23:23:35 ID:Bnt
文永の役後→処刑
弘安の役後→生かすが帰さず日本に留める

どっちも戦後の使者なのにこの違いは一体……
片方は僧侶だからとしても、もう片方はどうして切られなかったんだ
4回目の使者だった時に対馬の島民を送り帰してるからか?

23: 名無しさん@おーぷん 2018/10/21(日)00:57:24 ID:Hqh
まあ元て騎馬が主だし日本に来たの正規軍じゃないしな
ほとんど朝鮮で降伏したのが保身のためにした戦争だし

24: 名無しさん@おーぷん 2018/10/21(日)01:05:34 ID:6iX
>>23
元って従属した国の人が戦いに参加するものちゃう?
南宋の人も弘安の役では参加しとったし、
戦争に限らず政治でも漢人はよく登用されとったし

同じ大陸の騎馬民族で他国征服して広がった女真族の金でもそうやったし、
少数の騎馬民族が広大な領土と人を征服したら
どうしてもそうなるんやろか

57: 名無しさん@おーぷん 2018/10/21(日)20:42:59 ID:UQc
>>23
一応騎馬も連れてきとらんかった?
大陸での戦より少ない数しか連れてこれんかったのかな

32: 名無しさん@おーぷん 2018/10/21(日)05:56:04 ID:KrR
「出門妻子贈寒衣 問我西行幾日歸 來時儻佩?金印 莫見蘇秦不下機」 第七回使節 杜世忠
(家の門を出る際に私の妻子は、寒さを凌ぐ衣服を贈ってくれた。そして私に西に出かけて何日ほどで帰ってくるのかと問う。私が帰宅した時に、使節の目的を達して、もし(恩賞として)黄金の印綬を帯びていたならば、蘇秦の妻でさえ機織りの手を休めて出迎えたであろう)

悲しいなあ……

35: 名無しさん@おーぷん 2018/10/21(日)06:12:13 ID:hsU
日本に攻めてきたやつらの大半は元に認められたいのと自分らより下の身分の民族が欲しくて参加した高麗人やしな
ついでに日本攻めようぜってフビライに具申したのも高麗人

36: 名無しさん@おーぷん 2018/10/21(日)06:14:43 ID:jOK
秀吉の唐入りの時の李氏朝鮮と同じく使者送られた当事者にとっては
「は?何言ってるんや、コイツ」
みたいな内容やったし、扱いが厳しくなっていったのはしゃーない

37: 名無しさん@おーぷん 2018/10/21(日)06:16:19 ID:8Ns
蒙古軍の鎌倉武士のイメージほんますこ

39: 名無しさん@おーぷん 2018/10/21(日)06:17:34 ID:8Ns
1(中) 壱岐対馬は最初から見殺して相手の戦法を見極めてた

2(二) 既に出兵5か月前に出兵の時期を想定し鎌倉武士団を大宰府に展開してた

3(一) 相手が人質を楯にして攻めてきても関係なく矢を射かけまくってた

4(三) 2度目は30キロの防塁を沿岸に、20キロの空堀を博多の南に、10キロの水堀を大宰府に築いていた

5(遊) 博多が略奪されてるのは目に見えてるので、敵が来る三日前に博多を略奪しつくしてた(鎌倉武士団が)

6(右) 2度目の時はモンゴルに倣って人質を楯にして攻撃してた

7(左) てつはうにあんまり動じずそのまんま徒歩で戦ってた

8(捕) 2度目の時は夜襲しまくって眠らせなかっただけじゃなく相手の船に牛馬の腐乱死体を積極的に投げ入れてた

9(投) 元軍が壊滅した後、取り残された元軍の内、宋人は助命したが高麗人、モンゴル人は負傷者も女性も含めて皆殺しにしてた

60: 名無しさん@おーぷん 2018/10/21(日)21:08:54 ID:oDl
>>39
8番の蛮族っぷりは何やねん

62: 名無しさん@おーぷん 2018/10/21(日)21:12:48 ID:oWJ
>>60
死体投げ込むってのは外国の戦争の本でも見た気がするわ

どっかでは人間のをて記述も見たような……

63: 名無しさん@おーぷん 2018/10/21(日)21:15:14 ID:oDl
>>62
投石機使うならわかるけど
武士絶対人力で投げ込んでるやろ

70: 名無しさん@おーぷん 2018/10/22(月)18:23:00 ID:6e5
>>62
カッファ包囲やな
ペストで死んだ仲間を投石機で城内に投げ込んだ
ほんで城内から
感染したペストを撒き散らすようにヨーロッパ中に市民が逃げ帰った

71: 名無しさん@おーぷん 2018/10/22(月)21:38:49 ID:ond
>>70
とんでもないブーメランやな
そっか、疫病流行らせてって戦法は、
戦後に自分たちに返ってくるリスクあるんやな

しかも攻城戦やと城と町が一体の国では市民も感染するし

42: 名無しさん@おーぷん 2018/10/21(日)06:26:36 ID:jOK
いきなり戦争吹っ掛けずに何度も使者を送ってるあたり、モンゴルさんサイドも脅せば戦争せずに日本が屈すると思ってたんやろな

その度重なる使者が日本の危機感煽って対策を促したのは皮肉やけど

43: 名無しさん@おーぷん 2018/10/21(日)08:13:09 ID:3km
>>42
時宗は2回目の使者(日本にとっては最初)が着た後にはもう
蒙古が我が国を狙ってるから気を付けろ!って警告発してたんだっけ

二度攻め込まれても折れず対抗姿勢貫いたことといい、
まだ若かったのにすごい気概だったんだな北条時宗って

47: 名無しさん@おーぷん 2018/10/21(日)16:48:59 ID:AKW
>>42
最初の国書が鎌倉に届いたのが1268年、一度目の元寇の文永の役が1274年やから、
6年も経っとるんやなあ……意外と時間かけとるな
まあ南宋とか他も攻略しとったから日本だけにかまけてたわけやないけど

最初の国書でも日本のこと小国扱いするような書き出しやったし、
舐めプされとったのは日本にとっての幸いやったな

51: 名無しさん@おーぷん 2018/10/21(日)19:27:32 ID:JUM
>>42
使者送らずにいきなりカチコミされてたら日本不利だったんやろか?
武家政権とはいえ対外戦争の経験はないしなあ
刀伊の入稿は200年くらい前やし

46: 名無しさん@おーぷん 2018/10/21(日)16:17:41 ID:NSU
6回目の使者ぐう有能
海と風が危険なのも予想的中
やっぱ有能な部下の言葉には耳を傾けないとアカンな

1 名無しさん@おーぷん 2018/10/06(土)22:05:20 ID:Y4y
一年ほど日本に居た第五回&第六回使節の趙良弼さんの報告より

・獰猛で殺を嗜む
・親孝行を知らない
・上下の礼も知らない
・土地は山水が多くて耕作に利がない
・日本人を得ても役に立たない
・日本の土地を得ても富まない
・舟で海を渡るのも風は不定期で、損害を測ることもできない。
・日本征服なんて有用な民力で底なしの巨大の谷を埋めるようなもの
・結論、(元寇)反対

ここまで言われてなんで攻めてきたんや…

52: 名無しさん@おーぷん 2018/10/21(日)19:40:50 ID:Hqh
海て緩衝地帯て大きいわね
当時の船で横断するのに対馬に一旦渡らんとならんしいっぺんに軍隊送るの難しい

67: 名無しさん@おーぷん 2018/10/21(日)23:11:46 ID:C4f
>>52
使者も対馬通って止められたりしとったしなあ
けどまだ敵対してへんのに対馬が使者を拒んだのはどうしてなんやろ

53: 名無しさん@おーぷん 2018/10/21(日)19:45:22 ID:K8B
対馬で時間とられてたらその間に本土にも伝わるわなあ
島っても一気に全滅させられるわけないし
対馬か壱岐からは逃げて知らせた人もおったよな
九州の戦で戦死だか自害だかしたらしいけど

55: 名無しさん@おーぷん 2018/10/21(日)20:10:32 ID:mLF
仮に時宗が従属選択したとしても
朝廷かて返書の草案の内容見れば到底受け入れないやろし
武家の府が戦わずして従うとかふざけんなって
全国の武士から反発されて内乱になりそう

58: 名無しさん@おーぷん 2018/10/21(日)20:54:19 ID:Hqh
馬て環境の影響受けやすいから運ぶの苦労するんよ
一回目の時運んだし九州に上陸もしてたけど日本側にも大量にいるとは知らなかったらしい
反撃を日本側の騎馬隊に食らって撤退してる

59: 名無しさん@おーぷん 2018/10/21(日)20:58:36 ID:oWJ
>>58
6度目の使者の趙さん報告しとらんかったんかな
大宰府から先に進ませてもらえんかったみたいやから
その辺りまでしか知らんやろけど
それとも警戒して見せなかったんやろか

68: 名無しさん@おーぷん 2018/10/22(月)01:32:22 ID:jz7
>>58
動物のお医者さんでもでかい車で運ぶのも苦労しとったな
陸ならともかく船で運ぶとか遊牧民のノウハウやないやろし

72: 名無しさん@おーぷん 2018/10/22(月)21:41:37 ID:bAy
正直モンゴル帝国は元寇の頃より、西方遠征軍のあたりの方がめっちゃ面白いと思うんやけどな
日本来たのって、所詮モンゴルにとっちゃ局地戦やし

73: 名無しさん@おーぷん 2018/10/22(月)21:47:09 ID:ond
ヨーロッパまで遠征してポーランドとかドイツ騎士団とかとバトってたやつか?
あっちも騎兵やのになんで負けとったんやろなあ

76: 名無しさん@おーぷん 2018/10/22(月)21:51:34 ID:TO0
>>73
地形がデカイやろな
平地じゃ弓を使えるモンゴル騎兵には騎士じゃ勝てない

78: 名無しさん@おーぷん 2018/10/22(月)21:54:13 ID:bAy
>>73
単純に戦術も錬度も準備も差があったんちゃう?
野戦でも攻城戦でも、数的有利持ってても負けてるんやから
あと、モンゴルは諜略も得意で、内部にあらかじめ内通者作ってから攻める事も多かったとか

79: 名無しさん@おーぷん 2018/10/22(月)21:56:33 ID:ond
>>78
ほー結構絡め手使うんやなあ
日本では内通者が出たって話は聞かん気がするけど、
そういうことはなかったんやろか

まあ使者が南宋人だかに結構妨害されとったり、
大宰府に留められて鎌倉まで来れるようにされとったいうから、
やろうにもできんかったかもしれんけど

81: 名無しさん@おーぷん 2018/10/22(月)21:57:58 ID:TO0
>>79
そもそもあの時代に島国に内通者を作るってとんでもなく難しそうやな
スパイの炙り出しなんかは日本もやってたらしいけど

82: 名無しさん@おーぷん 2018/10/22(月)22:00:33 ID:bAy
>>81
中央アジアとかは当時からあらゆる人種が入り乱れてたらしいけど
見た目からめだってまう日本は難しいやろな
当時の朝鮮に日本人商人とか日本に外国人商人とかはあんまおらんかったんやろか?

84: 名無しさん@おーぷん 2018/10/22(月)22:06:40 ID:ond
>>82
博多には中国商人沢山いたとか、
南宋やばいんで亡命者が来てたとか聞いたことある
詳しい人数は知らんけど

言葉さえ話せれば外見はそう変わらんし
誤魔化せそうな気がするけど、
素性まで偽装するのは協力者でもないと流石に無理やろか

なんか当時の高麗で、日本に協力したかどで処刑されとった人おったかな

83: 名無しさん@おーぷん 2018/10/22(月)22:04:33 ID:ond
>>81
内通者やないけど大宰府に留めとったのも、
文永の役の後は使者が殺されたり日本に留めて帰さんかったのも、
偵察されて母国に情報持ちかえられるの警戒したんじゃないかいうし、
情報戦は当時からあったんやろうなあ

74: 名無しさん@おーぷん 2018/10/22(月)21:48:05 ID:TO0
偶に元軍がモンゴル騎兵が少ないから弱いみたいに言うとるやつおるけど倒した国の兵士を主に使うのはモンゴルの基本戦術やで

77: 名無しさん@おーぷん 2018/10/22(月)21:52:17 ID:ond
>>74
てか当時の元で、生粋のモンゴル騎兵ってどれくらいおったんやろ
もう金とか高麗とか、弘安の役では南宋とかめっちゃ併合しとるし、
兵も民もそっちの方が大きくなりそうやな

80: 名無しさん@おーぷん 2018/10/22(月)21:57:54 ID:bAy
>>77
宋人と高麗人がほとんどちゃう?
モンゴル人は指導部だけやろ
確か、日本は宋だけは助けて後は皆殺しにしたらしいけど

75: 名無しさん@おーぷん 2018/10/22(月)21:49:14 ID:SNF
モンゴルの強さってイマイチ想像しづらいわ
もうちょいフランスくらいまで攻め入ってくれたらわかりやすいんやが

85: 名無しさん@おーぷん 2018/10/22(月)22:23:49 ID:bAy
そもそも、距離的にも、権力的にも、国境の博多から大宰府までが遠過ぎる気がするな
内通者作るには
そりゃ、博多とかにはある程度はいたかもしれんけど、前線の事しか分からんやろ

86: 名無しさん@おーぷん 2018/10/22(月)22:31:02 ID:ond
使者を大宰府に留めたのが無礼だって非難する声もあるけど、
やっぱり情報の漏えいや工作を防ぐには有効だったんやろなあ
せっかくの島国アドバンテージやし

87: 名無しさん@おーぷん 2018/10/23(火)03:21:23 ID:g9a
今読むと小説の時宗(大河の原作)ってそういう
情報面での攻防にも焦点を当ててんのやな